ドラゴンクエスト ユアストーリーを見た感想
注意:この記事は龍騎兵団ダンザルブとドラゴンクエストユアストーリーとゼルダの伝説夢をみる島他いろいろなゲームソフトのネタバレに踏み込んでいます。
「龍騎兵団ダンザルブ」という作品をご存知でしょうか。元はスーパーファミコンでユタカが発売、開発はパンドラボックスの近未来的世界観のRPGです。パンドラボックス……というとぴんとこないでしょうが、ようするに「四八」で悪名を高めてしまった飯島多紀哉氏が作り上げたRPGなのです。
この龍騎兵団ダンザルブ、精鋭部隊ダンザルブ隊に配属された新人兵士マシューを主人公として、敵対するダマイア軍との戦争を乗り越えていくゲームなのですが、その終盤の展開はすさまじいものがありました。部隊内の裏切り者や、意図がわからなくなりだす上官からの作戦指令、そしてマシュー自身の出生の謎。それと並行してこの戦争のおかしさを指摘する謎の人物の登場となり、マシューたちは真実を探すようになりはじめます。
そして判明する真実。実はダマイア軍の作戦指示を出している上官と、ダンザルブ隊の上官とが同一人物であることがわかります。戦争自体がニセものの戦争であり脚本通りであり、至るところに隠されていたカメラによって録画されていた動画は映画として、ドラマとして、リアルな戦争モノとして大人気作品となっているというもの。しかもそれが小説にもゲームにもなっている、と。
この戦争を生み出し、マシューを戦わせていた張本人である上官を打倒し、開放されたマシュー。彼はゲームの支配下から逃れることができ、最後に隠しカメラに向かってこう言います。
今、君はテレビを見ているのかい?
もしテレビの出来事だと思って簡単に片付けたらそれはいつか現実になる…
君達が戦争を遊びだと考えていたら知らないうちに戦争に参加することになるかもしれない…
これから僕達は君達の世界に行くよ
いつかどこかであえるかもしれないね…
それが戦場でないことを祈って…
このセリフでこのゲームは終わります。スタッフロールすらありません。ゲームの中のキャラクターが現実のプレイヤーに対して語りかけ、そしてそちらの世界に向かうことを示しながら、架空の世界は終わりを告げるのです。
ゲームがゲーム自身の枠を超えて、現実に干渉する、プレイヤーに問いかけるという手法は珍しいものではありません。マザー2のラストバトルでは主人公ではなく「プレイヤー自身のねがい」が重要なポイントとして存在しますし、ゼルダの伝説夢をみる島においてのマリンの「わたしのこと、わすれないでね !」はリンクとゲームをプレイしているプレイヤー自身の、両方に向けていった言葉です。
高機動幻想ガンパレード・マーチにおいても二週目をプレイしはじめると、穏やかで理知的だったはずの先生が「…OVERSか。私の生徒に寄生しているな。何の用だ」と明らかにコントローラーを持っているプレイヤー自身にむかっての質問をします。ここで選択肢を間違えると撃たれて即ゲームオーバーになりますが、「龍を倒しに来た」とその場には似つかわしくない返事を返すことでシナリオが進められます。ここから先生は「ゲーム内のキャラクターでありながら、プレイヤーの干渉を知覚し、かつ協力して真のエンディングを目指す」という路線をとることになります。
ゲームは架空世界を作り上げるコンテンツです。作り手はいかにプレイヤーの感情を揺さぶるか、試行錯誤の歴史を積み重ねてきました。高機動幻想ガンパレード・マーチは2000年の発売で、その前述のダンザルブは1993年発売です。壁を乗り越えて現実にせまりくるメタ手法はこの頃からすでに萌芽していたのです。
さて、ドラゴンクエスト ユアストーリーなのですが、ラスト10分からの展開が衝撃でした。今までの流れをすべて捨てた超展開です。私が衝撃を受けたのは「捨てただけで何も拾ってない」ということなのです。
「実はこの世界はVRで、お前はただのプレイヤーだ」と言い張る流れ自体は構いません。そういう展開もありでしょう。しかしそれを言い張るウィルスを倒したのは、すでに用意されているロトの剣の姿をしたワクチンソフトなのです。ゲーム内のキャラでも、遊んでいるプレイヤー自身の努力でもありません。それでカタルシスが生まれるか、というと、まぁ全く生まれなかったとしかいいようがありません。本人の資質や歩んできた流れと無関係に用意されたアイテムで難局を打破して「お前こそ真の勇者だ」とはならないでしょう。これはドラゴンクエストなのですから。とってもラッキーマンだったら話は別ですが。
「この世界は作り物だけど、俺は愛しているし絶対に守ってみせるんだ!」としてウィルスを自力で倒す展開なら、「私たちじゃあのウィルスを倒せない! でも唯一この世界の住民ではない貴方ならウィルスを倒せる! そして……その貴方を、私たちは助けることならできる!」みたいな仲間たちのバックアップが生まれる流れなら、カタルシスはあったんですよ。それを全くしていない。水たまりのように底の浅い展開だ、としか評価しようがないのです。
ゲームという媒体のコンテンツは、いろいろなメタ表現に挑戦してきました。映画でも他の人が多数指摘しているようにいくらでも良質なメタ展開をしたコンテンツがあります。伊丹十三監督が「タンポポ」で映画館に座る男に「そっちも映画館なのね? そっちじゃ何食べてる?」と言わせたのが30年以上昔の話です。2019年、令和に入った時代に見せられるにしては、このユアストーリーはあまりに陳腐でしかないのです。これで「これは貴方の物語です」といわれても。
1986年に発売された「たけしの挑戦状」ではエンディングを見たあとにさらに隠しメッセージがあります。それは「こんな ゲームに まじになっちゃって どうするの」というもの。……エンディングのスタッフロール後に「こんな えいがに まじになっちゃって どうするの」と流れてきたら、却って許せたかもしれませんね。この映画は捨て方も半端だったのかもしれません。