コナミのゲーム嫌いな社長は実在した!? コナミの影の歴史に迫る!
さて、前回、前々回の記事にて繰り返しコナミ創業者である上月景正会長に対し「ゲーム嫌いという風説は間違っている」という内容を広げてきましたが、その際いろいろと資料集めをした結果、なかなか面白い事実に気がつきました。それは長いコナミの歴史の中で、とある時期に「ゲーム嫌いの社長」の存在が実在しえたのではないか? ということです。
「今更何を言っているんだおまえ」と思うかもしれませんが、最後までご覧下さい。これは上月景正会長が後悔してやまないコナミの影の歴史の話です。
1988年から1994年までのコナミと聞くと皆さんどのようなイメージをお持ちでしょうか? おそらく素晴らしく正のイメージを持っていると思います。アーケードではグラディウスⅡをはじめ名作STGが次々に稼働し、ファミコンにおいては自社生産カートリッジの製造許可を最大限に発揮して独自形状による拡張音源搭載の作品を広く提供、末期にはFM音源をそのまま搭載したラグランジュポイントという名作を投入。スーパーファミコンにもがんばれゴエモンシリーズ、魂斗羅スピリッツ、ミュータント・タートルズ、マダラ2、Pop'nツインビーと数々の名作を発売し、さらにはPCエンジンにも参入し、完成版スナッチャーともいえるスナッチャーCD-Romanticを発売、そして一大ブームを巻き起こしたときめきメモリアルの登場……と、まさしくコナミが乗りに乗っていた時期といえるのではないでしょうか。
ところがこの時期、静かにゆっくりと、爆弾が成長していたのです。ときめきメモリアルよろしく。我々の見えない場所で。
それを解説するにはまずは時を巻き戻し、1984年、コナミが株式上場(大阪証券取引所新二部)を果たしたときのことから話さないといけません。このとき創業者である上月景正社長は、社長を一度おり他の人に社長に就いて貰おうと考えはじめていました。なぜなら上場企業となれば社会的責任は増大し、社長としての対外的なお付き合いも増えるわけです。その当時の上場企業において40代の社長はほとんどいないわけなので、上月社長は「こんな青二才が会社の顔では、軽く見られてしまうのではないか」と心配していました。
そして実際に、東京証券取引所市場第二部に上場する前、1987年6月に実際に上月景正社長は社長を退任します。会長として会社にとどまり、社長は菱川文博氏へと変わりました。この菱川氏は兵庫県庁の企画部長や阪神県民局長をされていた方で、縁あってコナミへと入社しました。このとき、上月景正社長は上場するにあたって、大企業や各種金融機関から経営幹部をいろいろとスカウトしてきました。まだコナミの中では生え抜き社員が育ってはきたものの、役員になるまでには若すぎる、という判断でした。菱川文博氏もその中の一人で、当時63歳。会長職についていたのですが、その手腕と年齢による貫禄をかわれ、社長に指名されました。つまり会長と社長がひっくり返ったわけですね。
「異なった能力と資質をもつ二人が役割を分担することで、今までよりも良い経営ができると信じていた」と上月景正社長は当時を語ります。しかしそれは「上場企業トップのプレッシャーから逃れたいという弱気の表れであった」とも振り返ります。上月景正社長はなにより、世間体を気にしていたのでした。(このあたりジュークボックスのサービスや、手作りゲーム機の販売を行ってきた過去からの流れがあるように見受けられます)
新体制をスタートさせて一年、二年は問題はありませんでした。しかし三年目に入ってくると、菱川社長と上月会長の間に何かがおかしくなっていきます。会長に来客があると間に割り込み、「会長には私から言っておきますので」といって会わせない、社員に対しては「報告はすべて私を通してくれ」と釘を刺す。そもそも上月会長は二頭政治になることを気にしていたので、相談しにくる社員にたいして「菱川社長と相談して決めてくれ」とだけいうようにし、直接アドバイスするのは菱川社長だけにする、というふうに徹底していたのですが、さすがにこの態度には「いったい何を気にしているのだろう?」と不思議でならなかったのですが、ようするにこれは雇われ社長にしかすぎない菱川氏が出身母体の違う幹部や役員たちに自己の権力を見せつける必要があったのだろうと上月景正会長は後から推察しています。「上月会長は病気で再起できないらしい」と噂が流れたこともあったそうです。
これが結果的に派閥争いを生み、社員の混乱を生み、さらには対外的にもコナミのイメージが低下しはじめました。外部から引き抜いてきた幹部たちは現場感覚が希薄であり、ゲームを作っている若手社員たちの声がどんどんと届かなくなっていったのです。
そして次第に決算もおかしくなっていきました。確かに悪い数字ではありません。しかしゲーム市場全体の成長率と比較すると、コナミのそれはいまいちでした。そして上月会長はとある事実に気がつきます。経営状態は悪化しているということに。確かに決算は悪い数字ではありません。が、それは海外の販社に商品を大量に卸していただけにすぎませんでした。消費者が喜んでコナミの商品を買っていたわけではなかったのです。流通在庫、棚卸資産が莫大な数字になっていきました。
さすがにこのままでは危ない。上月会長はそう判断し1992年に菱川社長を下ろすことを決断します。しかしここでも自分が再度復帰するという選択肢は取りませんでした。上場を機に社長交代をしたのだから、もう一度他の人に社長をお願いしようということで、メーンバンクだった大和銀行からコナミの要望で91年に入社してきた西村靖雄専務が社長になることになりました。入社から社長就任まで一年というスピード出世です。菱川氏は名誉会長に就任し、顧問役としてとどまり、上月会長も会長のまま、という体制です。
そしてこの人事は問題解決どころか、さらに傷口を広げる結果になりました。
銀行出身の西村社長は就任した途端、赤字決算転落という事態は到底受け入れることができず、大量の在庫をそのままにし、他の役員もそれに追従し現場の惨状を反映しない見栄えのいいままの経営計画を追認していきました。しかもあろうことか菱川名誉会長と西村社長が同調路線を取り、在庫処理はどんどん遅れ、問題解決は遠のくばかりでした。
「海外子会社に潜在的な赤字がある。それも数億というレベルではなく、数十億というものだ」
この問題に蹴りをつけるには創業者である自分しかありえない。菱川名誉会長や西村社長では責任の取れようがない。そこで一時西村社長を降格し、自分が社長へ戻り、この問題を処理したあと経験を積んだ(なにせ1年で社長就任です)西村氏を復帰させようというプランを立て、西村社長と話しをし、1994年6月、上月会長は上月社長と舞い戻りました。ところが西村氏はあろうことかさっさと大和銀行へと戻っていってしまいました。その上大和銀行からは「どうして黒字続きの経営者を首にしたんだ!」とカンカン。コナミは大和銀行との取引が打ち切られる羽目になります。
このような出来事もあり、上月景正社長が「残された我々としては唖然としてしまった」と語る羽目になりました。なんとか海外子会社の在庫処理をしなければならないのですが、その金額がとにかく膨れる。80億円ほどの損失を覚悟していたものの、そこからさらに不良在庫が見つかるという有様。海外子会社からしてみたら「日本の本社が勝手に商品を送ってきた。これは在庫ではない。押しつけられた商品が移動してきただけ。我々が仕入れたものではない」というもので、不良在庫という認識すらなかったのです。無茶な在庫押しつけはゲーム市場の黎明期なら通用していたのですが、時はすでに16bit機が円熟期を迎え、次世代機であるサターンや64の影がちらつきだした頃です。さらにはアメリカ市場では任天堂とセガがシェア抗争の果てに本体にソフトを2.3本バンドルさせて売っていた事情もあり、買い控えと値崩れが起きていたころでした。無茶に押しつけた在庫が売り切れる余地などなかったのです。最終的にコナミの赤字は160億円にまで膨れ上がりました。当期売上高が277億円であるため、どれだけ巨額な赤字であったか想像できるかと思います。西村氏はこのことを予期できたため、さっさと銀行へ帰っていってしまったのではないか、と上月景正社長は語っています。
コナミは危機に陥りました。経営能力よりも社会的な信用を重視して社長を頼み、プレッシャーから逃げた結果です。苦いという言葉では言い表せないほどの惨めな経験であった、と上月社長は語っています。しかも上月社長は7年間現場を離れていたのです。社員と社長の間には空白の七年間が壁として立ち塞がっていたのでした。自分の考えや経営方針は、全く社員には伝わっていませんでした。上月社長はここから現状を打破するために様々な改革を打ち出すことになるのです。
その中の一つがメールの活用。パソコンを350台導入し、各所にメールを送付。同時に紙の書類を廃止し、社員からきたメールと返事はすべて公開。社長の社宅には専用線を引き24時間メールを確認できるようにし、夜遅く働いている社員や海外勤務の社員からのメールでも即返事を出すようにしました。おかげで「どうせ翌朝にならないと返事がこないだろう」と思っていた社員が驚き、次第に士気があがるようになったと語っています。そしてこのおかげで中間管理職の仕事というのが見直されました。当時の中高年はパソコンの苦手な人が多かったため、このメールのやりとりに忌避感を覚えていたわけですが、そうは言っていられなくなり現場に通ってマネージメントを行うようになったといいます。
また、社内の状況を把握するために一日中ずっと社員の日報を見ました。まずいと思えば即割って入り、そしてほとんど全社員の日報を見るに至り、ようやく状況を把握できたと判断した後は、社員に対して報告書を出すように指示しました。上司に渡すものだとなかなか都合の悪いものは書けないという問題はあるため、報告箱というものに入れさせ全部署で共有させました。おかげで問題点を遠慮なく書くようになり、部門を超えて経営全体の動きを共有化することができました。これが契機となり、開発部門の分社化、独立採算制を導入することができました(ときめきメモリアルのPS版を手がけたKCE東京、小島プロダクションの原型となったKCEJ、悪魔城ドラキュラX月下の夜想曲を生み出したのサターン版移植担当であるKCE名古屋などなどが誕生しています(R4.01.13ブコメからの指摘あり訂正。ありがとうございます))。
そして上月社長は役員人事に手をつけました。世間体を気にすることはやめました。96年6月、管理職6人を取締役に抜擢しましたが、彼らは皆30代の若手でした(この中には後にデジタルエンタテインメント社長を勤め上げる田中富美明氏も入っています)。彼らに事業遂行にかかわるすべての権限を委譲しました。そして経営責任者というグループを作り、さらにその中に最高責任者というグループをつくり新たな給与形態をつくりました。たとえ平社員でも会社に絶対必要な人材なら責任者グループに入れ、部長格でも実績がないならそこから落とされるという仕組みです。「利益率が高い、売り上げ規模が大きい、成長率が高い」といった事業を担当する人物ほど給与をあげるようになっており、作り上げた計算式に決算データを入れるとそのまま給与が自動的に計算されるという仕組みでした。そのまま実施したところ、とある役員の年俸が一億円となってしまい、これは上月社長の年俸を遙かに上回るものでしたが、バランス取りを考えずそのまま実施したとのことです。
これらの改革は功と出ました。コナミは成長を続け、ゲーム会社として躍進することになります。また上月景正社長は同時期コンピュータエンターテインメント協会(CESA)初代会長に就任し、ゲームソフトの権利保護、コンピュータエンターテインメント産業の発展に向けて精力的に働き続けます。
さて、こうして振り返ってみると確かに「コナミのゲーム嫌いな社長」はいた可能性があります。1992-1994年コナミ社長をしていた西村氏は、在籍わずか一年で社長をすることになりました。しかも53歳です。銀行出身で1992年に53歳の西村氏がゲーム好きである可能性というのは、かなり低いかと思います。もし「コナミのゲーム嫌いの社長」を真面目に指摘するのならば、西村氏がもっとも近いのではないでしょうか。しかし、その名をあげる人はいないでしょう。おそらく西村氏がコナミ社長をやっていたことをインターネット上で指摘するのはこの記事が初出かと思います。
最後にこの言葉を持ってこの記事を締めたいと思います。
上月景正氏は尊敬に値する方ですが、ここまで精力的に働き過ぎる人と一緒に仕事したいかっていわれたら絶対にしたくないですね
参考文献:日経情報ストラテジー1997年6月号
日経ベンチャー1999年一月号-四月号 社長大学
日経ビジネス1995年7月31日号 敗軍の将、兵を語る