平和的なブログ

ゲームのことばっかり話してます。たまに映画とか。

特別編 「KONAMIの社長はゲーム嫌い」という伝説におくるレクイエム

ずいぶんと昔になりますがこのような記事を書きました。かなりの反響をいただけて少しは「コナミの社長はゲーム嫌いだ」という風説を打破することができたのではないかと思っています。
今回の記事はその続きです。(なのでできれば前回の記事を読んでいない方は目を通していただけると幸いです)



さて、前回の記事ではコナミがゲームという表現から逃れることで、なんとかゲーム会社として大きくなっていったことの歴史を語りましたが、具体的にどのようにゲームに携わっていったか、謎のままでした。実はコナミの創業からゲームに携わることについてはインターネット上で確認することができません。社長がどのようにゲームの道を歩んだか、Wikipediaではさらりと記述して終わりです。



私はコナミに関する資料をいろいろと取り寄せました。国会図書館からです。

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日経ベンチャー1999年3月号64p


オンラインでコピーを送るサービスをやっているんですが、本当に素晴らしいサービスです。大量に集めた資料の中に、コナミの創業時について現コナミホールディングス会長上月景正氏が直接語る記事がありました。いかにしてコナミはゲーム分野に踏み込んだのでしょうか? 日経ベンチャー(現在は日経トップリーダー)1999年1月号-4月号に組まれた社長大学、コナミ社長上月景正特集。この記事を使い解説いたします。




まず上月景正氏の生い立ちを説明いたします。1940年生まれの上月氏終戦時の1945年、父親が病死します。母親は6人の子供を抱えながら働いており、上月氏は5番目の姉弟だったものの長男ではありました。母親は高校にいくことを勧め、良い就職先を見つけるために工業高校へ進学。なおこのとき自ら高校の文芸部をつくり、その活動にも精を出していたとのことです。映画や小説に対する夢がこのときから生まれていたと語っています。


その後、ソニーのサービスセンターに入社。故障したトランジスタラジオをただただ直す日々でしたが、仕事の覚えが早くトントンと係長まで出世しました。
しかし三年目、雑誌にて大学の通信教育を発見し、即入学。これが面白くてしかたがなかったと語るほどで、会社に無理をいって一ヶ月の休暇をもらい、通信教育だけでなく本物のキャンパスで授業を受けたとのことです。学生会館にとまり、慶応大学に通い、授業後に演劇を見る……と、この一ヶ月で本物の、楽しい学生生活を行いました。
このとき知り合った仲間から夜間学部の存在を教えてもらい、関西大学の夜間学に入学。昼間は仕事をし、夜に学校に通っていたのです。


卒業間際に知人に誘われ日本コロムビアに転職。そしてまもなくそこでジュークボックスの販売を任されることになりました。しかしこれは不調におわり、コロムビアが想定していたほどの市場規模がなかったということでコロムビアはジュークボックス販売から撤退します。しかし一度販売したジュークボックスは稼働し続けているわけで、それのサポートを求められました。そこで上月氏は会社をやめ、そのジュークボックスの修理対応などをする便利屋を始めました。


コロムビア時代に売った先は主に夜の飲食店、繁華街のバーです。その中の得意先で「ジュークボックスだけじゃ物足りない。なにかおもろいゲームはないんか」といわれ、そこで試しにピンボールをまねた小型のゲーム機を作ってみたところ(社長いわく「他愛のない代物」)、それが飛ぶように売れたのです。これにチャンスを見た上月氏は自宅を本社所在地として「コナミ工業株式会社」を設立しました。資本金は100万円。商材は、手作りのゲーム機です。


そこから上月氏は時代の流れにあわせ変化をし続けました。バネ仕掛けだったゲーム機にモーターを取り付け、アメリカでビデオゲームが登場すればその技術を取り入れる。任天堂ファミコンを作ればサードパーティーとして即参入(コナミは初期のサードパーティーとしての優遇措置を任天堂から受けています)。これらのソフト売り上げでコナミは大きく伸ばすことができました。


この流れを振り返り、上月氏はこういいます。「私のしてきたことは、『忌み嫌われた仕事』の積み重ねでした」と。重たいジュークボックスをかついで飲み屋を回り、「青少年教育の敵」といわれたビデオゲーム普及期。しかしどんなときも自分の目の前の仕事に打ち込み、事業を維持、発展させることだけに神経を集中して、苦しさを乗り越えてきました、と。



このインタビューの最後、上月氏はこのようなことを語っています。「最近、なんだか不思議な思いにとらわれています」と。目の前の仕事に取り組んできた結果、10代の頃の夢がどんどん近づいてきたと。
今の(1999年の話です)ゲームソフトは映画に勝るとも劣らない表現手段になり得ます。ラジオの修理、ジュークボックスの販売、ゲーム機の手作り生産と、食べるためにやってきた仕事が、いつのまにか作家や映画監督になりたいというかつての夢に結びついた、と。これはすごいことだと思いますし、人の生き方、事業家の生き方にはこのような道もあるのだ、と強く実感するようになりました、と。




以上でコナミ創業時の話は終わるのですが、この「社長大学」にはほか、社長交代時のドタバタやそのあとの社内の統制、海外販社の不良在庫による大赤字といった大混乱が語られているので、是非皆さん国会図書館オンラインにてコピーをとってみてください。すべて写しても送料込み千円程度で済みますし、その価値がある内容かと思います。
上月景正氏のゲームに対する思いは「好き」「嫌い」の二分で終わるような浅い話ではすみません。「コナミの社長はゲーム嫌い」という風説がいかに馬鹿馬鹿しいか、わかっていただけるかと思います。


最後に、社長大学最終回における上月景正氏の言葉をご紹介します。



ひょっとしたら、意外に早い時期に、私自身が製作責任者となって新しいゲームソフトをつくる日が来るかもしれません。しかし、その夢が実現しても、事業家としての私の挑戦は、まだまだ終わらないでしょう。私がいなくなっても、コナミがびくともせずに成長する姿を頭に描き、日々、念じ続けなければなりません。