平和的なブログ

ゲームのことばっかり話してます。たまに映画とか。

こんなブログ読んでないで一刻も早く「アクタージュ」を読んでくれという話

こち亀が終わって以来、週刊少年ジャンプからしばらく遠ざかっておりました。私のようなおじさんは対象年齢に入っておりませんし、HUNTER X HUNTERはなかなか連載再開されないし、したらしたで理解できない展開が続いているし、まぁいいかな、と思っていたんですが、時間つぶしにジャンプ一冊読む機会があったので読みました。そしたらもうびっくりしました。めちゃくちゃ面白いんですよDrStone! どうして誰もおしえてくれなかったんですか!? あ、あと約束のネバーランドもめっちゃ面白くで先がどうなるかワクワクしています!

 今日おすすめするのはその2つではありません(というか、高評価すぎて今更私がおすすめしたところで……)。今回私が強くおすすめするのは、「アクタージュ act-age」です。
 この漫画、少年漫画には非常に珍しい「演技-舞台」モノの漫画なのです。演劇を題材にした漫画といえば「ガラスの仮面」がありますが、そちらが少女漫画の体を成しているのに対し、アクタージュは非常に少年漫画的アプローチをしかけています。強力なライバルの存在、凄まじい才能を秘めているもののピーキーすぎて自分ですら演技力をコントロールできてない主人公、次から次へと新しい試練が登場し、そのたびに違うライバルが出現し、そして今までのライバルは強敵と書いて親友となるパターンを踏襲しているという代物。しかも「演技力」という要素を分解して描写しており、それらを「表現」「感情」「役の幅」と言った具合に表し、主人公やライバルのパラメータをうまい具合に解説しています。まさしくこの箇所はHUNTER X HUNTER! 
 そしてこの漫画の上手いところは映画や舞台を物語の主軸にしているために、「相手以上の演技パワーを発揮すれば勝ち」というわけではないところです。あくまで「映画の収録、舞台の成功」こそが第一であるというスタンスが通っています。こちらの役柄がモブであるなら、主人公役のライバルの出番を喰うわけにはいきません。その制限化で如何に自分の役を強くみせさせ、かつ同時にライバルの魅力を引き立たせなければならないか……。ジレンマになるところをなんとかしていくのが、この作品の大きな魅力なのです。
 自己の能力を分析し、相手の特性も見定めて、かつ勝利条件を満たしていく…。これは「演技」という題材を元にした、「ジョジョの奇妙な冒険」であるのです。ジョジョは好きですよね? ならアクタージュは読むべきです。読んでしかるべきなのです。

 まだ踏ん切りがつかない? いいでしょう。ほんの少しネタバレします。主人公は初めての撮影のモブ役(時代劇での通行人)するときに、主役に飛び蹴りをぶち込みます。いったい何故か!? それはぜひ漫画を読んで確かめてください。

30代も後半になってきたおじさんがスマブラSPを買った話

 30過ぎて結構経ちました。豊富な人生経験を積んだおかげで、0.13秒で反応できていたビシバシチャンプの早押しが、0.2秒超えるようになりました
 これはもう本気でやばいなと実感する毎日です。FPSをやっても照準を合わせるのが明らかに相手に遅れます。社会人になったころから明らかに真正面での撃ち合いに勝てなくなってきたのがわかるので、思いがけないところにC4設置して敵を爆破したり、アシストに徹したり、相手の裏をかく動きで翻弄してなんとか高キルレートを保持していたのですが、30過ぎたころからもうそれを考えることすらきつくなってきたので、オンラインマッチに参加することはなくなっていきました。PUBG? フォートナイト? 一応やりましたよ。一応。
 

 そんなわけで私がやるゲームはどうしても非リアルタイム性が弱い、SLGやらRPGやらに偏ってしまうわけですが(そんななかでも楽しめたスプラトゥーンは凄いなぁとか思います)、それでもどうしてもスマブラは買ってしまうんですよ。習性的に。なので今回も買いました。スマブラSP

 で、正直後悔することすら覚悟に入っていたんですが、驚きました。めっちゃくちゃ面白いんですよ、スマブラSP。というか、灯火の星が! もうね、衰えが気にならないというか、ここまで再度スマブラに燃えることができることに驚きと嬉しさが同時にやってきたんです。

 今回のスマブラSPには従来のアドベンチャーモードが「灯火の星」というストーリー仕立て(といってもストーリー自体は極薄フレーバーでしかありませんが)で導入されていますが、これがまさしく「がっつり遊べる一人用スマブラ」として稼働しているんですね。

 灯火の星はようするに「それぞれのお題にあわせて、最適な手持ちのコマを探して組み合わせて戦う一人用モード」になっています。ステージが強風ステージなら、強風無効化のスキルを付けていけばいいし、爆弾が降り注ぐステージなら爆風に強いスキルをつけていけばいいのです。最初こそ手持ちのコマが少ないので苦労する羽目になりますが、次第に増えていくと戦略の幅がどんどんと広がっていきます。かつやられてもデメリットはないので簡単に再戦できます。相手がメタル化してる? ならばメタルキラーつけていくぞ! 相手がジャイアント化してる? ならばこっちもジャイアント化で出撃だ!

 かつ、相手のキャラも多彩で(まぁいままでの参戦キャラ全員参加ですし)、そのCPUレベルも多様で、超反応してくるやつもいればアイテムに気を取られてしまう奴もいます。「そんな超反応する奴をどうやって倒すんだよ」と思われるかもしれません。そういう場合、Lv99にさせた相性のいいコマをつけて力でねじ伏せます! スマッシュ一発当たれば相手は消し飛ぶのです! 


 そうです、この灯火の星、今までのストイックな、己の実力がものをいうスマブラの一人用モードとは違い、「いかに事前準備で対策するか」というRPG的要素を組み込んでいるのです。勝てない敵がいてもいいんです。一旦引き返し、コマを成長させてからやり直せばいいんです。成長させる方法も、「戦う」「おやつを投入する」「道場にいかせる」「探索にいかせる」とかなり多様で、Lv99にすることは容易です。

 なお灯火の星は発売から一週間、ほぼ毎日プレイしてプレイ時間は合計20時間を超えましたが、未だクリアしておりません。どれだけあるんだこのボリューム! クリアしてから記事を書こうと思ったんですが、我慢できずに書きました。ごめんなさい。これからやろうとする予定は「灯火の星クリア」と「勝ち上がり乱闘を好きなキャラで制覇」と「スペシャル乱闘とりあえずやってみる」ですが、どれだけ時間があっても足りそうにありません。スマブラのおかげでスマブラをやっている時間がないのです! 任天堂任天堂の邪魔をするのを止めてください!


 なお、この記事を読んで「それじゃスマブラやったことないけど、とりあえずやってみようかな?」と思った人は、まずはyoutube任天堂公式チャンネルから「よゐこスマブラで大乱闘生活」を見てから進んだほうが良いと思います。全く知らない人に対して親切か不親切か、というと、このゲーム結構不親切だと思いますので。

『神ゲー』アクトレイザーについて語ろう

 ファイナルファンタジーシリーズの偉大なる作曲者、植松伸夫は言った。「『アクトレイザー』の楽曲は業界内で一つの"事件"だった」と。スーパーファミコン初期タイトルでありながら、驚くべき音質と楽曲を兼ね備えて現れた『アクトレイザー』は、プレイヤーと業界と、双方に強い衝撃を与えました。もはや異口同音にこのことは語られており、あえて私が深く言及する必要が感じられないので、別方向からのアプローチを行いたいかと思います。今日は巻きでいきますよ! はい、今回のテーマはSFC初期の名作、『アクトレイザー』です!


 このアクトレイザー、主人公である神の分身を操作して、魔物たちを撃破する横スクロールアクションゲームと、天使を操作して人々を魔物から守り街を発展させていくクリエイションモードとの2つで構成されていることは、よく知られているかと思います。有野の挑戦でとりあげられたこともありますし、Wiiバーチャルコンソールでもかなり初期から登場した作品でもあります。元々の知名度も高い作品でありますから、各所ブログにて散々取り上げられたことですし、プレイしたこともある人も多数いる作品です。

 そんな作品でありますから、「今更音楽がいいとか言われてもなぁ」と思う方もおられるかもしれません。なので私はこの度、少し違った視点でこの作品を解説したいかと思います。

 このゲーム、日本においては豊富なイベントが練り込まれたクリエイションモードが評価のポイントであり、独特の操作性を持つアクションモードはどちらかといったらあまり評価されてきた、とは言い難いところがありました。海外ではむしろ逆であり、それが原因で続編アクトレイザー2において、クリエイションモードがなくなったとされています。

 さて、そのアクションモード、具体的にどのようなところが独特の操作感なのでしょうか。ジャンプ後の方向制御は非常に弱く、ダメージを受けた後の無敵時間はかなり短いです。剣を振ったリーチは短めで、しゃがみ攻撃をするときはリーチが伸びますが、隙が大きくなり、かつ上方への攻撃範囲は減ります。横スクロールで先に進んだとしても雑魚敵が消失する、ということがありません。なので「体力ゲージに物を言わせたゴリ押し」戦法は通用しません。そのため必然的に出てきた雑魚敵を逐次的確に倒していくことが求められます。このことに気がつくまでは、やられ放題にやられてしまうので、「高難易度」と呼ばれる原因の一端になっています。

 救済措置としては魔法の存在があり、いずれも強力で、ボス戦に至っては「魔法連発でなんとかなる」というところまで助けてくれます。ところがこの仕様も罠になっており、最後、魔王サタンとの決戦の手前では、今までのボス6戦をくぐらなければならないようになっており、魔法に頼った戦略は途中でガス欠になるという状況に陥ります。必然的にボスのパターンを読み切り、如何にダメージを受けず、的確な処理ができるかを求められるようになります。


 最終的に頼れるのは己自信の力量。自らの操作で神の力を振るい、敵を倒していくのです。


 そして魔王サタンとの決戦なのですが、ここで一つ不可思議なことが起きることを、このゲームを楽しんだプレイヤーは気がつくことでしょう。本来パワーアップアイテムを取らないと出てこない剣の衝撃波が、魔王サタンとの戦いに於いてだけは常時使える状態なのです。このパワーアップアイテム自体非常にレアで、本編通じて一つしか出てこないアイテムでかつ、とても強力です。そんなアイテムを取った状態に、神は自らの意思で自由になることができる、という推察がなりたちます。ではいったいなぜ、神は普段この力を封印しているのでしょうか?

 ストーリーを振り返ってみましょう。神はかつて、魔王サタンとの戦いを続け、その力が拮抗した状態で平和を保っていたのです。しかし魔王サタンは6体のしもべを作り出し、それを連れて神に戦いを挑みました。サタン単体とならば拮抗している力は、6体のしもべの出現によりバランスが崩れ、神は敗れ去りました。敗れ去った神は一時天空城へと戻り、そこで傷ついた体を癒やしながら、数百年の時を得て、魔物に支配されてしまった地上を取り戻すべく戦いに戻るのです。

 まだ力の戻りきらない神は、地上に人々を導き、増やすことで信仰心を得て、かつての力を取り戻していきます(それがクリエイションモードです)。そして最高レベルにまで達したとき、天使はこういうのです。「かみさまは もう じゅうぶん もとの つよさを とりもどしたようですね」と。

 そうです、このゲームでは、最高レベルに達したとしても、それはあくまで「もとのつよさ」が限界なのです。それなのに再び6体のしもべと、魔王サタンとの決戦に趣き、勝利をしなければならない……。神はそのことを知っていたはずです。だからこそあえて自らが振るえる力を制限し、最後の最後、魔王サタンとの決戦まで封印し温存したのでしょう。そしてついにやってきた魔王サタンとの戦いで、はじめてフルパワーの己の力を開放した……。このゲームの裏のストーリーはこういうふうに読み解くことができるのです。

 そしてそれをなし得たのは、もうひとりの存在、プレイヤー自身です。操作性に四苦八苦し、マラーナの触手にもがき苦しみ、魔法を使うタイミングを考えながらサタンへの決戦に向かうプレイヤーのプレイスキルの向上がなければ、神はかつての戦いのように、サタンに敗北してしまったことでしょう。そう、敗北する未来から神を救ったのは、別世界のプレイヤーなのです。プレイヤーの助力により、神は神としてさらに高みの存在へと昇華することができたのです。


 よく「神ゲー」を挙げる話題に本作が(半ば冗談、半ば本気で)語られることがあります。神を操作することができるから神ゲーと。しかしこういったストーリーを組んでゲームを見つめ直すと、アクトレイザーは「人の力をもってして、神を超えることができる神ゲー」といえるのではないでしょうか?

容量と戦った、とある天才ゲームクリエイター -スナッチャー CD-ROMantic-

 皆さん、ファミコンソフト、「ドラゴンクエスト1」の総容量はご存知でしょうか? 64KBです。一時期は「携帯電話の壁紙一枚分」なんて言われたものですが、今や高解像度が進んだスマホでは壁紙にもなりません。ちょっと調べたら私の使ってるPCの、修復インストール用デバックテキストファイル「bootstat.dat」が66KBでした。だいたいそれくらいです。

 この容量とのギリギリの戦いは、名作漫画「ドラゴンクエストへの道」でも描かれています。あまりに容量が少ないために、カタカナのフォントを全部入れることすらできなかった状況下、それでも見事な良質RPGを作り上げた堀井雄二と、中村光一は、まさしく天才の称号を与えられるべきでしょう。

 容量との戦いはその後も続きます。ファミコンメガドライブはカードリッジ、PCエンジンはHuカードと、媒体は違えど毎年容量の増えた新型が投入されるのに、それでもまだ容量が足りない! という状況で開発者は湧き出るアイデアと裏腹に、涙をこらえつつゲームを作っていきました。ドラゴンクエストでいえば1(64KB)→2(128KB)→3(256KB)→4(512KB)と倍々ゲームで増えているのですが、3ではついにOPを削除する羽目になり、最も容量が多い4ですら、容量不足の原因で本来のストーリーから削られた要素が多かったといいます(ピサロが仲間になる、というPS版で追加された要素は元々のファミコン版の構想時点で存在していたという)。



 そんな容量との戦いは、とあるインターフェースユニットの発売によって、一気に転換することになります。皆さんご存知の「CD-ROM」、これが1988年末、PCエンジンの周辺機器として登場しました。1988年発売のドラゴンクエスト3で256KB、対してこのPCエンジンCD-ROM2システムでは540MB、1000倍以上の容量が扱うことができました。これにより、コンシューマゲーム機の容量問題は解決するかに見えました。………はい、見えただけです。とにかくコストがかさむことがCD-ROMの普及を妨げました。何しろ本体とは別に別途合計60000円オーバーのインターフェースユニットを購入する必要があったのですから。即、CD-ROMに移行しようという流れには、ユーザーも、ゲームメーカーもならなかったのです。

 そんな価格面での普及の問題はさておき、開発者側から見てCD-ROMはとても魅力的なものに見えたはず……では、なかったのです。いったいCD-ROMのどこに、問題を感じたのでしょうか? 読み取り速度? バッファメモリ? 確かに問題はそこにもありましたが、大きなものが一つ他にあったのです。そう、「容量」です。

 『お前は何を言っているんだ?』と思われるかもしれません。CD-ROMは当時のカードリッジの1000倍以上の容量があったはずでは? と。そうです。最大の問題は「それだけ容量があると、何にどうやって使って良いのかわからない」状態になってしまったのです。当時の広告ではCD-ROMの容量を「ドラクエ2が1000本入る!」と打ち出しました。なるほど、確かにそれは実現可能でしょう。では一体、だれが1000本分のドラクエ2を作るのでしょうか? 堀井雄二中村光一という天才二人が一年間取り掛かって出来上がったのがドラクエ2です。それを1000本分…となると、想像を絶する開発規模になることが目に見えています。

 しかしそんなCD-ROMの弱点を、すぐに(主にハドソンの)開発陣が克服していきます。CD-ROMの大容量を活かすために、音楽を生音源で録音しました。画像取り込みで実写も使えます。声優の声を長時間録音することも可能です。アイドルとバーチャルデートするゲームが出来上がり、面クリア時にムービー再生が入るアクションゲームが出来上がり、そして、声優がキャラを演じ、坂本龍一がメインテーマをかきあげたRPG天外魔境」で、その容量問題の一つの答えが出ました。グラフィックと、音楽と、音声とが、急角度で進化したのです。

 そしてそれは同時に開発者にとってまた新たな問題を出されたことと同じでありました。「このなんでもできる大容量のCD-ROMで、己のセンスを表現する」ということです。グラフィックと、音楽と、音声と、シナリオと、ゲームデザインと、ありとあらゆるところでセンスが問われるようになりました。なんでもできるCD-ROMはプレイヤーに夢と驚きを与えました。それと同時に、厳しい選定眼をプレイヤーに与えてしまったのです。


 開発者たちはCD-ROMという大容量に戦いを挑みました。苦しめられた開発者も多かった中(そうして出来上がったゲームは、今度はプレイヤーを苦しめました)、飛び抜けた才能を持つ人らのそれが、名作として世に登場しました。ゼロヨンチャンプ2がそれでありますし、今回語るゲームである、スナッチャーCD-ROMantic-も、そうであります。スナッチャーの開発者は小島秀夫。そう、後にメタルギアソリッドシリーズで世界に名を轟かせる、小島監督です。



 さて、PCエンジンスナッチャーの解説を始める前に、この「スナッチャー」という作品自体の解説が必要になります。元々はPC88やMSX2で発売されたアドベンチャーゲームです。いくつかあるコマンドを選択し、人と会話をしたり、場所を調べたりして、いつの間にか人とすり替わるバイオロイド、スナッチャーの正体を暴くため戦いを挑む、サイバーパンク・アドベンチャーで、近未来でスタイリッシュな場所と、みすぼらしい人たちでごった返すスラムとが同居している独特の世界観(小島監督ブレードランナーから影響を受けた、と明言しています)が売りで、スナッチャーとは一体何者なのか、そしていったいどこから現れるのか、眼の前にいる人間は本当に人間なのか…。奴らの正体の謎を解き、そして記憶喪失の主人公ギリアン・シード、彼自身の謎も解いていく、というゲームです。

 そうしたハードな雰囲気とは裏腹に、主人公ギリアンは意外に饒舌家で、相棒であるメタルギアMKⅡ(MGS4に出てきた同名のそれと似てる、AI搭載のミニロボットです)とボケとツッコミのかけあいをしてプレイヤーを楽しませてくれます。基本的に昔のアドベンチャーゲームらしさの、コマンド総当たりで物語が進んでいくのですが、とにかく会話のパターンが豊富で、飽きることがありません。なにもないところでも、なにか新しい会話が出てくるのではないか? とプレイヤーに思わせ、さらに探らせようとしたくなる仕掛けとなって作用しています。個人的には自宅でトイレに入ると便座機能で体調確認ができるので、それを使ってみようとするギリアンと、結果にメタルギアが驚き、「どうしたメタル!?」→『死ぬほど健康です』という掛け合いをするのがツボにはまりました。


そんなスナッチャーなのですが、PC88やMSX2というパソコンで発売するにあたって問題が生じました。そう、容量問題です。小島監督の本来出すべき構想ではあまりにボリュームが多すぎて、会社からの承認が得ることができませんでした。PC88ではフロッピー5枚組、MSX2版でも3枚組という多さでも、本来Act5まであった構想は大幅に削られ、Act1と2のみ、という未完成品として発売されました。そして後半もあまりに長くなった開発期間により、会社から打ち切りの指示がくだされてしまったのです。物語としては一つの山場を迎えることはできたものの、スナッチャーの正体やそれを作り出した犯人は謎のまま、ストーリーは終わってしまいました。

 小島監督ら、開発陣は強い無念を抱いていたと後に語っており、その後にMSX2にて「SDスナッチャー」が発売されることになりました。これはAct3の要素を組み込んだリメイク作品で、これによってようやくストーリーは完結する流れになりましたが、これはアドベンチャーゲームではなく、RPGとして仕上がっています。従来のアドベンチャーでは、どうやっても容量問題が邪魔をして完全版が作れなかったのだろうと思います。

 そして、SDスナッチャーから二年の1992年、ようやく普及しはじめてきたPCエンジンCD-ROM2にて、スナッチャーCD-ROManticは発売されました。名前の通り、CD-ROMであることを売りにし、その大容量を存分に使った作品に仕立ててきました。容量問題はCD-ROMにより解決しました。しかしその反対の問題点、「大容量すぎる容量をいかにして駆使するか?」に対して、小島監督はどう立ち向かったのでしょうか? 実際のOPを見ながら小島監督の答えを聞いてみましょう。

 
www.youtube.com


 開幕の注意書き、そして挑戦状とも思える字幕、続く声優によるナレーションとアニメーション。歴史を語る流れが次第に謎の侵略者スナッチャーのことへと変わっていき、不可思議な存在、スナッチャーの謎と恐怖を掻き立て、タイトルロゴの登場。そしてそこからオープニングテーマが始まり、スタッフロールの後、主人公ギリアン・シードの話へと焦点が合っていく……。元々のPC88版でも似たような構成になっていたのですが、PCエンジン版ではCD-ROMの大容量を活かした演出の強化がなされています。映画的手法を導入した初の作品として、このスナッチャーは挙げられることが多いのですが、PCエンジン版で強化された結果、映画的手法を超え、まさしく映画同等の演出を得ることができたといえるでしょう。プレイヤーは、これにより完全に心を掴まえられるのでした。

 小島監督のセンスはそれに留まりません。そこまでしてがっちり掴んだプレイヤーの心を、今度は振りほどくような真似をします。背景にあるのはパチンコの「パ」の字が消えているネオン(実はヒントにもなっている)。流れているCMに書いてある電話番号にかけると実際にかかったり(もちろん本編と全く関係はない)、スーパーコンピュータ、ガウディの検索機能を使ってスタッフの名前を検索するといろいろと出てきたりと、本格的サイバーパンク世界観に酔いしれながらも、一方で小島監督の遊び心溢れた脇道を楽しむことができるという体験ができるようになっています。CD-ROMにしたおかげで容量はあまりに余っています。こういった脇道的オマケ要素はPC88、MSX2版よりも大幅強化されました。スタッフの奥さんのDNAの本数を聞いてくるクイズも搭載されています。

 そして何より容量増加の恩恵を受けたのはやはりAct3の存在でしょう。Act3ではすべての謎が解かれ、スナッチャーとは何者なのか、誰がそれを作り上げたのかが解明されます。(Act4と5はこれ以後の、エピローグ的要素だ、との事)。主人公ギリアンと相棒メタルギアMK2が首謀者のいる場所へと乗り込み、陰謀を阻止しようとしたところで繰り広げられるのは、なんと首謀者本人による20分に及ぶ独白! そこからエンディングまで、ノンストップで独白+ムービーは流れ続けるのです。

 ゲームというのは双方向性があってこそのものだ。20分コントローラーを操作する必要がないゲームなど、果たしてゲームといえるのか? 映画ではないのか? こういった批判は当時でもありました。しかし考えてください。ゲームというものは、プレイヤーに驚きをもたらしてこそです。最後の最後でゲームが映画になったこと自体が、驚きではなくてなんでしょうか。OPの五分の映画的手法でがっしりと心を掴まれたことを、エンディングで再現したわけです。映画から始まったゲームは、最後、映画として幕を閉じたのです。そのダイナミックな動きこそ、まさしくゲームではないでしょうか。そしてそれを実現したのは、CD-ROMという媒体と、小島監督の持ち得る卓筆したセンスの合わせ技でした。



 最後になりますが、「小島監督」と呼ぶことに触れなければならないと思います。この呼称に忌避感がある人もいるかと思います。「ゲームを作ってる人は映画監督ではない」という批判もあり得ると思います。しかし私はあえて、小島秀夫という人物には「監督」が付くことになんの問題もない、と主張したいです。ゲームと映画を結びつけた、最初の人物なのですから。小島監督は間違いなく、卓越したセンスを持つ天才ゲームクリエイターです。その彼が生み出したセンスの結晶体、スナッチャー-CD-ROMantic、ぜひ皆さんプレイしてみてください。

「めでたしめでたし」の先のお話と、ロマンシング サ・ガ2について

 桃太郎の最後は「鬼退治を終えた桃太郎はおじいさんとおばあさんの元へと帰りました。めでたしめでたし」です。
 一寸法師の最後も「鬼退治を終えた一寸法師は打ち出の小槌で大きくなり、娘と結婚して暮らしました。めでたしめでたし」です。

 ドラゴンクエスト1のエンドも、2のエンドも、「魔王は打倒され世界に平和が戻りました。めでたしめでたし」です。ドラゴンクエスト3ではラスボスであるゾーマが次なる魔王の復活を示唆することを最後に言い残しながら死ぬけれども、主人公たちが1の主人公の祖先、ロトであることがわかり、「たとえ次なる魔王が現れても、子孫が戦い勝利する」物語であるとわかって完結するというもの。

 私のブログの読者なら「そんな教科書レベルで知られている事柄を並べていったいどうしたんだ?」と思うだろうけれど、さて皆さん、2のラストのあと、邪神シドーを打倒したあとの話はご存知ですか? そこそこ知られている事実ですが、実はGBA用ソフト「ドラゴンクエストモンスターズ キャラバンハート」にて描かれています。2の数百年後の世界が舞台のこのゲームでは、なんと2で登場しているロトの子孫の国、ローレシアサマルトリアムーンブルクの三国は全て滅んでいます。ローレシアサマルトリアの王子二人はシドー討伐後、しばらくで行方不明になっており、ムーンブルクも再建されたものの、再度滅亡してることがわかります。

 なぜこのような事態になってしまったのか? それを補足している作品があります。ドラゴンクエストモンスターズプラスという漫画にてこれらについて詳しく描写されてます。

 2のラストにて、復活したバズズが世界に不信をばらまいた。「破壊神が倒されたということは、それよりもさらに力を持ったものが生まれたのではないか?」というもの。おかげで人々から恐れられ孤立するローレシアの王子。「破壊神を破壊した男」という名を与えられ、そして自分から姿を消した……というもの。この漫画自体最高に面白いので、ぜひ皆さん読んでみてください。

 物語のラストは「めでたしめでたし」。けれど、果たしてその物語の先は、ハッピーエンドが続くのでしょうか? 「めでたしめでたし」で終わっていいのか? この疑問に対してすでに一つの答えを提示した作品があります。1993年にスーパーファミコンにて発売された名作RPG、「ロマンシング サ・ガ2」です!


 名作RPGとして名高いこのゲームですが、その肝は戦略性の高いバトルシステムと、どのイベントをスタートさせてもよいフリーシナリオシステム、そして個性豊かな七英雄といった要素であり、ストーリーはどちらかといったら、そのゲームプレイの彩りをつけるフレーバー的な扱いをされることが多いかと思います。(発売当初にはかなり賛否両論だったそうで)それもそのはず、このゲームのストーリーは、表面上は「かつてモンスターを退けた七英雄が復活したけれど、人間も襲ってきたので皇帝が伝承法(皇帝の記憶と能力を、次代の皇帝にそのまま引き継ぎさせる術)を使って強くなって反撃する」というものでしかないのです。これはフリーシナリオシステムを採用しているため、従来の一本道RPGのような大きな起承転結で構成されるストーリーは作りようがないためでしょう。

 そのかわり、七英雄のキャラクター性は強く押し出され、各地のイベントが物語を盛り上げるための起承転結を構成しています。その結果、「七英雄を打ち倒すまでの歴代の皇帝と帝国の激しい攻防記」というストーリーが出来上がっていくのです。

 そして最後、見事強敵七英雄を倒した最終皇帝は、退位し、帝国は共和制へと移行し、最終皇帝は次第に忘れ去られ、詩人が歌う唄の中の存在へと変わっていくのでした。しかし一人寂しく酒場に佇む元皇帝の元に、かつての仲間たちは訪れるのでした。そう、人々は忘れていても、仲間たちは決して皇帝のことを忘れてはいないのです。めでたしめでたし……。

 ロマンシング サ・ガ2はこのようなエンディングを迎えます。ちょっとお待ち下さい。貴方は不思議に思いませんでしたか? 「なぜ最終皇帝は退位せねばならなかったのか?」。それを読み解くには、すこしばかり苦労します。実はこのゲーム、七英雄の背景をかき集めると、同じエンディングなのに違った顔を見せるようになります。そもそもなぜ、かつての英雄たちは人間たちを襲うようになったのでしょうか?


 皇帝に伝承法を伝えたのは、占い師オアイーブ。しかし伝承法を伝えた数千年後の世界においても、オアイーブはその姿を保ったまま皇帝の前に姿を表します。いったいなぜ? その時、オアイーブは真実の一端を語りだします。


 かつてこの世界は、古代人が支配していました。気象や地形すら自在に操ることができた彼らは、ついに寿命すら克服することに成功した。「同化の法」。自分の魂を他の体に移すことで永遠に生きることが可能になったのだった。そしてそれに使う他の体とは、彼らが奴隷用として使っていた短命種……つまり今の皇帝たち、普通の人間。

 そんな古代人たちが次に恐れたのは、寿命ではなくモンスター。モンスターに襲われればいくら寿命がない彼らでも死が訪れる。そんな中、立ち上がったのが七英雄。彼らは同化の法を改良し、モンスターと融合してその力を吸収することで、より強くなり、モンスターと戦い続ける。七英雄は、本当に英雄だったのです。

 しかし強大になりすぎた力が、倒すべきモンスターを倒しきった時……古代人に向けられてしまったのです。そう、七英雄はまさしく、「モンスターを超えた力を持つ者」になってしまったのです。七英雄を恐れた古代人は、次元の転送装置を作り上げ、それにより七英雄を別の次元へと追いやってしまいました。それと同時に巨大な天変地異が起こることを予期し、古代人の多数はその転送装置にてまた別の次元へと逃げ込みました。オアイーブ含む、少数の古代人一派を残して。

 古代人の多数がいなくなり、かつ天変地異を襲ったことでこの世界の支配者はかつて奴隷であった短命種……皇帝たちの種族に映りました。彼らは別れ、国を作り上げ、それぞれに文化を作り上げました。オアイーブ一派は彼らを飛ばしてしまった責任を感じ、あえて次元を飛ばす、そのまま辺境に静かに隠れ住み、存在を歴史から消そうとしています。いずれ彼らは、この世界へ戻ってくるのだろうから。

 そして世界に、再び七英雄は帰ってきます。次元を超え、自分たちを裏切り、ないがしろにした古代人へ、復讐するために。彼らはもはや英雄ではなく、復讐鬼へと堕ちていました。しかし復讐すべく古代人はすでにこの世界におらず、別の次元に逃げ込んでいました。彼奴らを追いかけるために七英雄は各地に散らばり、情報収集をすることになります。その際、かつての奴隷、短命種に被害が出ようとも関係ありません(それどころかクジンシーやボグオーンあたりは完全に世界征服を企んでいる)。オアイーブはそれを見て決心します。


「今の彼らは7ひきの
モンスターでしかありません。」

「私たちは彼らに殺されても
仕方ありません。」

「しかし、あなた方に罪はありません。」

「あなた方には身を守る
権利があります。
ですから、その手段として
伝承法をお教えしました。」


 数年年の時を超え、オアイーブは初めて自らの真意を皇帝に語ります。自ら七英雄をモンスターにしてしまった罪、それを贖罪する中に、短命種を巻き込んではならない。伝承法はかつて七英雄が自らに施した同化の法の、短命種用へ調整された改良版であったのです。しかしそれにも限界があり、いわゆる「最終皇帝」で、伝承法は最後となります。その最後となった皇帝は、見事七英雄の最後と、彼らの本体を打倒し、七英雄を完全に葬り去ることができました。めでたしめでたし……。そう、ここでようやく上記の話とつながるわけです。七英雄の背景を見たあと、最終皇帝が取った行動をみるととても腑に落ちる動きになっていると思いませんか?


 七英雄はモンスターを超える存在になり、モンスターを打倒したあと……自らがモンスターへとなっていってしまいました。最終皇帝は七英雄を超える存在になってしまい、七英雄を打倒します。最初こそは真の英雄としてもてはやされることでしょう。しかし直に、それは恐怖へと変わることでしょう。……ローレシアの王子を恐れた人々のように。最終皇帝はそれを知っていました。オアイーブの言葉から、戦った七英雄から。自らモンスターとなることを封じるために、彼は皇帝の座を退いたのです。そして民衆の記憶から忘れ去られることを、自ら望んだのです。それが平和を永らえる道だと信じて。

 エンディング、無人の酒場で皇帝は静かに酒を飲みます。思い浮かぶのは今までの皇帝の記憶。彼らと共に戦ってきた仲間たちの幻影。長い長い戦いの歴史を1人抱きしめながら孤独の人生を歩むのです。……いえ、孤独ではありません。かつての仲間たちが皇帝たちの元へ、再び訪れました。そう、人々は忘れていても、仲間たちは決して皇帝のことを忘れてはいないのです。めでたしめでたし……。
 
 最終皇帝が選んだ手段は自己犠牲を含んだものであり、かつかつての七英雄の悲劇の歴史を学んだものであるといえます。一度エンディングを迎えたあとのストーリー。その後に生まれた悲劇を、二度と起こさないように選んだ最善の道でしょう。人は歴史に学びます。たとえそこから悲劇が生まれたとしても、人の記憶はそれを乗り越えることができる……。ロマンシング サ・ガ2のエンディングは、いわば二度目の、真のエンディングと言えることでしょう。そんな自己犠牲をした最終皇帝のもとにも、ちゃんと仲間は集うのですから。

 そう、ドラゴンクエストモンスターズプラスのローレシアの王子も、戦いのはて、かつての仲間と集まり救われることができました。共に戦った仲間がいること。彼らとのつながり、それがあるからこそ「めでたしめでたし」でお話を締めることができるのではないでしょうか。

高橋ソーカントクの言葉に首を縦に振りすぎてもげた話と、「アルナムの牙」の話

 みんな働いてますか?(挨拶)

 さて、先日話題になった記事ですが、モノリスソフト開発スタッフを募集中とのことです。知らない人向けに解説すると、モノリスソフトとは任天堂の子会社で、RPGゼノブレイドシリーズ」を作っている会社です。中の人達も今までRPGをとにかく作ってきた人たちばかりで、取締役である高橋ソーカントクは元々旧スクウェア(現スクウェア・エニックス)でFFシリーズに携わり、ゼノギアスを作った人(ディレクター兼脚本家)であります。

 そんな彼が上記のスタッフ募集で凄いことを言っています。

ロールプレイングゲームの要はマップです。
>シナリオなどでは決してありません。

 しびれました。RPGを作り続け、脚本も作った男が言い放った重みのあるセリフです。そこまでやった男が「シナリオはRPGの要ではない」と言ったのです。あまりに感銘を受けたので首をぶんぶんと縦に振りすぎて頭がもげました。もげてないです。いややっぱりもげたかもしれません。

 そうです。そうなんですよ。シナリオはRPGの要にはなりえないんですよ。RPGで「飛び抜けて優秀なストーリー」だけど「平凡なマップ」「退屈なゲームバランス」であった場合、どうなるでしょうか? 一つ例をあげて解説しましょう。今回のブログのテーマは、1994年にPCエンジンスーパーCD-ROM2で発売された、「アルナムの牙 獣族十二神徒伝説」です!


 このゲーム、三人パーティで進み、主人公ケンブ以外の二人が入れ替わることで戦略性が生まれるオーソドックスターン制RPGです。主人公らは生粋の人間ではなく、半分獣の血を受け継いたような「獣人」で、その力を開放することで特殊能力を発揮する……というようなもの。ところが彼らはその獣人であるがゆえ、生粋の人間たちからは差別される立場であったりします。「卑しまれた者たち」として蔑まれる存在でありながら、同時に人間たちへの奉仕(肉叢という名のモンスターが各地に現れたので、それの退治を任された)を強要される羽目になります。

 主人公ケンブは自らの過ちで仲間たちを肉叢に殺されてしまい、それに対する復讐と自責の念により、奉仕へ向かうことになります。先々で向けられる人間たちの侮蔑の念。同時に「自分は人間だ」という意識と、強すぎる自らの獣の力。悩み、苦しみながら前に進み、そしてついにこの世界の真実、自分たちの存在の本当の意味を知るのでした……。という、ストーリー。

 このゲーム、94年とPCエンジンの円熟期を過ぎたあたりに発売されたのですが、それもあって恐ろしく美麗なグラフィックと、迫力あるムービー、上質なサウンドで構成されています。キャラデザはあの木村明広で、表情は多彩だわ格好いいわヒロインも可愛いわと高得点。そして先に述べたストーリーの完成度も高く、後半の怒涛の展開は結構な衝撃が続き、主人公ケンブの「俺は獣なんかじゃない。……人だから。だから、苦しみながら生きていかなきゃいけないんだ」というセリフで私は泣いていました。


 『ん? このゲームのことめちゃくちゃ褒めてない?』と思った皆さん、ちょっとお待ち下さい。このゲーム、致命的なのは「ビジュアル・ストーリー・音楽以外の全ての要素が全部駄目」ってことなのです! 

 例をあげましょう。このゲーム、バランスが崩壊しています。なにせイベントで手に入る最強武器よりも、その一個前に使ってた武器のほうが絶対に強いです。ロトの剣よりも炎の剣のほうが強いドラクエ1みたいなもんです。なんだそのバランス。

 敵とのエンカウント率は異常に高く、数歩歩いただけでエンカウント。また、敵とのレベル差によって逃亡率が大幅に減少する仕様なのですが、これがまた絶妙にずれていて『楽に勝てる相手なのだけど、レベル的には敵のほうが強いことになってて逃げるに逃げられない』なんてことに陥ります。怒涛のエンカウント率と相まってストレスの相乗効果を生み出します。

 そしてマップ! 基本ダンジョンは分岐点多数行き止まりに宝箱、かつ中身は薬草クラスというイライラっぷり! 分岐点が気になって戻って確認してもその労力が報われることはありません。このイライラ構成は最後まで一貫しており、スタッフの執念が垣間見えることでしょう。しかもなんとヒントとなる街の看板やセリフが間違っていることがあり、北と南、東と西が違っているという有様。さあ、迷子になっているうえにエンカウント率の高いフィールドでもがき苦しむがいい!

 また、悲劇的なのがCD-ROMの生産工程によりバグが発生したらしく、とにかく到るところにバグが眠ってるという悪夢。キャラ絵が入れ替わり、特定のスキルを使うとフリーズし、最悪の場合はセーブ一つなのにバグで進行不可に陥ってしまう可能性も(私は幸いにも発生しませんでした)。

 とにかく突っかかるところが多い点が災いし、「もう一度最初からプレイしたい」という欲求が起こらない仕様となっています。


 その結果、どうなるのでしょうか? 私は一度だけクリアしたことがあるのですが……なんと、ストーリーをさっぱり覚えておりません! いや、あの、感動したのは事実なんですよ。でもなんで感動したのか、さっぱりわからないんです。それでですね、それでですね! 「やりなおして確認しよう」って気にはさらっさらならないんですよ! 勘弁して下さいよマジで! 苦行みたいな代物ですよ! そんなことしてる暇あったらメタルギアサヴァイブのCoop行きますよ!

 ストーリーは覚えていないのに、ゲームバランスが苦行であったことは明確に覚えているという悪夢。ゲームにとってこれほど屈辱的なことがありますでしょうか。プレイヤーとしても結構屈辱であることは違いありません。

 今一度、高橋ソーカントクの言葉を思い出してください。ロールプレイングゲームの要は、ストーリーではないのです。マップです。上質なストーリーも、高品質なグラフィックも、澄んだサウンドも、核を固める要因にはなりえても、核そのものにはなれないのです。

 もし貴方が「このRPGすごく面白かったよ! 特にストーリーが感動もので!」といえた場合……それはストーリーが面白かっただけではないのでしょう。マップの構成が上手く、ゲームバランスも良好だからこそ、貴方は自信をもってそう言えたのではないでしょうか? 

 貴方がゲームのストーリーに酔いしれることができるその下で、ディレクターやデザイナーが全力を注いで作り上げたマップが、そのゲームプレイを支えているのかもしれませんね。

「読んでて苦痛だった作品でも、存在してはいけない理由には繋がらない」という結論を出すためにいろいろ考えた

皆様は「共感性羞恥」という言葉をご存知でしょうか? そこそこ知られるようになったと思うのですが、ようするに「テレビや映画などで登場人物が恥をかくシーンを見て、同じように自分も恥ずかしくなってしまう共感性が強いひとのこと」を指します。これ、私がそうです。幼い頃はかなり強くてそういう場面がテレビに映った場合即チャンネル変えていました。今ではだいぶ落ち着きましたが、それでも結構嫌な思いをします。結構な割合でこういう人はいるようで、10人に1人ほどの割合だそうです。

それと、実は私「浮気している描写」が死ぬほど苦手なんですよ。うる星やつらの諸星わたるレベルで博愛主義?を貫いているならまだ見れるんですが、ドラマで結婚してる人物が他の異性に心を惹かれていく描写が出ると、今でも吐き気がします。マディソン郡の橋は未だに嫌悪感あふれる作品となっています。現実に浮気をしている人物は……まぁ軽蔑するくらいで済みますけど。

あともう一つ、「本当のことを言っているのに、嘘つき扱いされる描写」も大の苦手です。おそらくこれがずば抜けて酷く苦痛に感じる描写です。特撮ものでは王道の展開ですけれど。宇宙人のUFOを見ても信じてもらえない。怪獣がいたといっても信じてもらえない。ウルトラマンコスモスの劇場版、ファーストコンタクトでは主人公の男の子が教室のみんなに対してウルトラマンを見た、と言っても誰一人信じようとせず嘘つき扱いをされます。物語が進むに連れ、ようやく主人公が本当のことを言っていた、と信じてもらえるのですが、はっきりいって私の心境は「長い拷問がようやく終わった」に等しかったです。

「お前の地雷なんて別に聞きたくないぞ」と思う方がほとんどだと思うのですが、少し考えてもらいたいのです。「もし私が、これらの描写を見て苦痛だと訴えて作品排除を主張したらどうなるか」ということを。

おそらく「笑われて終わりだろう」と思いますでしょう。ちょっとだけ待ってください。共感性羞恥は10人に1人の割合なんですよ。非常に多い割合なのに最近になってようやくテレビで持ち上げられ、存在が薄々知られるようになったんです。つまり「今ようやく可視化が進んだ」というわけなんです。はたして今後、浮気描写で吐き気が出る人、嘘つき扱いされる描写で苦痛を感じる人が、多く存在すると判明しないと言い切れるでしょうか? その人たちが声をあげて「創作物から浮気描写・嘘つき扱いされる描写を消してくれ!」と叫んだ場合、どこまで無視ができますか? 今まさに、ライトノベルの表紙で女性の肌が出すぎている、という事柄で議論が起きている状態なのに。

「女性関連に関しては歴史的経緯があるため議論の余地があるのだ」という理論もあるでしょう。なるほどなるほど、女性がかつて社会的地位を貶められていた歴史があるため、創作物に対しても慎重であるべきだ、というものですね。ならば我々(あえてこういう言い方をします)はたった今声をあげます、と。今まさしく創作物によって傷つけられているのです、いったいいつになれば議論の余地が生まれますか? と。あと何年我慢すればよろしいのか、と。そうなれば当然、「今」という答えしか生まれないでしょう。今、まさしく足を踏まれているのですから、とりあえず足をどけろと。

そしておそらく声を上げた結果、ゾーニングという手段が取られ、本や映画の背面に「羞恥」「浮気」「嘘つき扱い」といったレーティングが貼られ、そしてレーティングが多数貼られると売上が低下するという理由で上層部はできる限りあたりざわりのない内容へと変更するように指示を出すでしょう。かくして世の中の創作物からそういった表現が消え去り、我々は生きやすい世界が誕生しました。めでたしめでたし……。

そんなわけがありません。それだけで済むわけがないのです。「なぜ我々が苦手とするこの表現を排除してくれないのか」といった訴えが、あちらこちらで発生するでしょう。いいですか? 「浮気描写苦手」「嘘つき扱い苦手」という属性がこの世に存在するんですよ? ならば「ビルの破壊苦手」「銃の射撃苦手」「食事シーン苦手」「人が走るシーン苦手」みたいな属性が次々に発見されるわけです。その中から「これはレーティングに入れる/入れない」なんて選択ができるわけがありません。とりあえず足をどけなければならないのですから。

かくして山のように増えたレーティング、長引く審査。売上低迷に右往左往する出版社と編集。書くたびに抗議される作者。そして創作物は死ぬ。

だからこそ私ははっきりと主張したい。作家の皆さん、私みたいな存在を全く気にせず、好きな作品を書いてください! 私だっていやですよ、面白そうな作品を読んでる最中で唐突に自分が死ぬほど苦手な描写がでてくるの。でも、その描写が出てくることを受け入れた上で作品を評価します。面白いとか、面白くないとか、面白かったけど一部描写で吐きそうになったとか、面白くない上に嫌悪感が湧いた、とか。それが創作物への、この難儀な性癖を持ち合わせて生まれ持った私のスタンスです。

つまらなかった作品・苦痛だった作品は遠慮なく床に叩きつけます。でも、存在はしていいです。これは私にとっては最悪な作品だったけれど、他の誰かにとってはそれなりの代物だったのかもしれない。いや、誰にとっても最悪な作品であっても、存在が許されないわけじゃないんですよね。きっと。

本当に生きづらい世の中かもしれませんね。この世界。でも、「死ね」って言われてるわけじゃないんで、歯を食いしばって生きていきましょう。